メモ theCult of Informationコンピュータの神話学 セオドア・ローザック

本書の課題は、機械が情報を処理しているときにやっていることと、精神が思考しているときにやっていることとのあいだには大きな違いがあることを主張することにある。~~われわれは過去の多くの技術がうまくいかなかったのを知っているので、コンピュータの崇拝者(才能を持っているものは権力と利益のゆえにこの崇拝に加わる)によって誤った方向に導かれないように批判的になっている。情報技術は政治的な権力を集中させ、新しい形態の社会的混乱と支配を生みだす可能性をもっている。p7

 

一般の人々が、冷蔵庫や自動車、テレビを必需品とみなしているのと同様に、「情報」を現代生活の必需品とみなすことになるだろうか?コンピュータ・メーカーは、そうさせるために何十億ドルも賭けている。情報がわれわれの社会のなかで熱狂的な支持を獲得するようになったのは、もっぱら広告と販売努力によってなのである。p45

 

すでに、コンピュータについて判断ができないばかりでなく、コンピュータの知能のほうが優れているから判断する権利をもっていない(過去のどんな技術にかんしても人間がけっしてとらなかった絶対的服従の態度)、と信じている多くの人々が存在しているのではあるまいか。~~コンピュータは日常生活のなかに深く入りこむにつれて、われわれの思考を、もしくは思考の概念そのものを途方もないやりかたでつくりなおす可能性をもっている。p66

 

経済性と効率性の名のもとに、必要とされるすべてのデータを内臓しているとされるコンピュータによって、生徒の経験が制限されてしまうことに気づかされる。実験のさい、生徒は教師から変数の一覧表を受けとり、仮説を立て、「この仮説を検証するためにはどんなデータを集めるべきかを考える」というわけである、そのあと、コンピュータで実験を始めると、コンピュータは、もし彼がほんとうに実験をしたら収集したであろうはずの「生の」情報を生徒に提供する。これらのデータを分析したあと、この生徒は自分の研究戦略を精緻なものにし、結論をさらに普遍的なものにするためにつぎの実験を計画する。ここには、生徒とコンピュータが閉鎖的なシステムとなり、シミュレーションだけに依拠した「結論」に到達するという、現実的な可能性をみてとることができる。~中略~これはたいへんな時間の節約である。しかし、それは現実の科学を反証するのとはほど遠い道を歩んでいる。なぜなら、これは実験ではないからである。それは、実験のシミュレーションであり、それゆえ、現実の矮小化である。元来、実験は研究の目的と条件に合わせて現実を編集する作業である。いまや、シミュレーションが、現実の科学研究にかかわるものを切り捨てることによって、実験を編集してしまう。さらに悪いことに、シミュレーションは、実験の真髄といってもよい危険性をたくみに回避してしまう。ほんとうの実験は、みずからの仮説を証明することに失敗するという可能性を前提にせねばならない。しかしながら、シミュレーションでは、すべてがいつも正しいことになる。p99

 

子供や一般の人々は、コンピュータのディスプレイ上につくりだされた「宇宙」が、小さいが高度に編集された現実のシミュレーションであることを認識するだろう。しかも、それは、小さいが高度に編集されたシミュレーションによってつくられたわれわれ自身の宇宙でもある。われわれの経験のなかの狭い領域~論理的な理性~だけがコンピュータに表現されているのである。感触、直観、あいまいな常識的判断、美的な感覚は、すべてではないにしても、ほとんど除外されているのである。われわれは自分のすべてをコンピュータにもちこむわけにはいかない。われわれは、電子的なイメージやシミュレーションが、人生のより大きくてあつかいにくい事実を、人々の意識から押しのけているような世界に生きている。われわれは、無秩序な世界に秩序を求めようとして、スプレッドシートの予測、戦争ゲーム、経済予測、地球モデル、選挙予測~混沌とした現実を管理する助けになりそうなコンピュータによるさまざまな抽象~に頼っている。しかし、コンピュータが指示しているものが、論理構造、仮説、選ばれたデータ~すべてわれわれがつくり選んだもの~による虚構であることを忘れたときには、力は幻想に墜ちてしまう。また、人間性のごく一部だけが、この虚構の創造に関与していることを忘れたときには、幻想は情熱へと深まる。p100

 

コンピュータ・リテラシーが未来上の流行になると確信しているデータ商人、未来学者、学校関係者らがもたらした災いとは、このことである、彼らは精神は観念によって思考し、情報によって思考するのではないという基本的な真理を見失っている。精神は観念を照らしだし飾りたててくれるかもしれない。情報が対照的な観念のもとで働く場合には、ほかの観念を疑問に付すかもしれない。しかし、情報は観念をつくりだしはしない、情報はそれ自体では観念の妥当性をうんぬんすることはできない。一つの観念は別の観念によってのみ、つくりだされ修正され排除される。文化は、その観念の力、柔軟性、豊かさによって生きのびる。観念が情報を定義し、内部を規定することによって情報をつくりだすのであるから、はじめに観念ありき、なのである。それゆえ、教育の主要な任務は、若い精神に観念をいかに取り扱うか~新しい用途のために、どのようにして観念を評価し、拡張し、採用するか~を教えることにある。これはほんのわずかの情報があれば、あるいは情報などまったくなくても、できることである。データ処理機械も必要ない。過度な情報は観念をどっと浮かびあがらせるが、精神を不毛でつながりのない事実によって混乱させ、山積みのデータのなかで道に迷わせることになる。p124,5

 

ランダム化を組み込むことによってプログラムの出力は予期できないものになるという理由から、このプログラムは「創造的」であるとみなされてきた。しかし、この種よ工夫されたでたらめさと真の創造性とのあいだには大きな開きがある。コンピュータが生みだすものは筋肉の発作レベルでの「創造性」でしかない、それは予期できないがほとんど意味がない。もちろん、きちんと整理されたかたちでわれわれのもとにやってくる経験の形態もある、機械的なやりかたで学ばれた事物や暗記事項、手続き、名前、住所、事実、数字、指令などである。この種の経験があとに残すものはコンピュータの記憶素子を満たすものである「情報」とよく似ている。心理学的な語彙は、この別種のレベルないしは記憶の構造を明確に区別できない。われわれは過去の事物の記憶について一つの言葉しかもっていないのである。われわれは電話番号を''記憶している''。われわれは人生を変えた精神的な苦しみのエピソードを「記憶している」。この別種の経験を「情報」という項目でひとまとめにすることは生活の質を切り下げることにつながる。「心には理性が知ることのできない根拠がある」とパスカルは述べている。私は、この言葉を、人々の精神は混ぜあわされた経験の泉から汲み上げられた観念で満たされている、という意味だと解したい。この種の観念はぼんやりしていて矛盾に満ちているが、それらは、よかれあしかれ、確信の素材になるかもしれず、なりうるものである。この「根拠」にまつわる論争において、情報はあまり役に立たない。われわれは、この観念の底にある経験を探究して、自分自身の確信にもとづいて検証し、事例をとりださねばならない。読者がこれらの言葉~読者の考察にゆだねた私の確信~を読みながら今していることをなさねばならない、と言ってもいいだろう。読者は、私の道徳的ないしは哲学的な立場は何かを確めようとして、立ち止まり、考える。私が提起している観念の感覚を得ようとするさいに、自分の記憶のなかに立ちもどり、私が挙げた経験と対応するものがそこにないかどうか確めようとする。読者は、事実をめぐる問題以上に、意味のニュアンスや深みをめぐってとまどうかもしれない、裏づけとなるような、あるいはならないような考えを見いだすかもしれない。たぶん、読者は自分のもっともお気に入りの価値のいくつかが挑戦されていると感じて、それを守ろうと必死になるだろう。この沈思黙考が何をどのようにして明らかにするのか言うことはできないが、一つのことは明白である、どれ一つとして「データ処理」ではない。それは、二つの精神がたがいにみずからの経験を引きながら行う対話のやりとりである。それは観念のたわむれなのであり、データベースの情報は、人々のあいだで闘わされている論題に決着をつけることなどけっしてできない。p141